2020年06月26日

創業者の妻を偲んで

昭和52年に父とともにアサ倉工業を創業した母が、令和2年4月に亡くなった。享年98歳。
母は、関東大震災があった大正12年に愛知県岡崎市の田舎で6人兄弟の次女として生まれた。
小学校から帰るとすぐ裏山へウサギのエサを取りに行って狐に化かされたことや、まわりの家に電灯が燈っても、うちはランプのままだった・・・などと子どもの頃の話を聞かせてくれた。
高野山で修業してきた祖父(母の父)が小さな檜の祠(ほこら)を細川の龍神山(りゅうじんさん)に建て、等身大の子安大師さんを家に祀って、三河弘法の札所にもなったが、貧乏は半端じゃなかった。
先日、母がお世話になった岡崎の住職にご挨拶に伺ったら、亡くなった21日は弘法さんの命日だと教えていただいた。深いご縁があるのだろう。
母のつつましい金銭感覚と、一方で苦労の中でも何とかなるという信仰に近い楽観主義は後年のアサ倉工業にじわっと影響を与えたかもしれないし、私だけがそう感じているのかもしれない。
特に、アサ倉工業を創業してからの数年間は「精出せば凍る間もなし水車」、「辛抱も朝日待つのも竹の雪」と口癖のように唱えてたし、「金がないのは首がないのも同じ(で情けない)」と聞くほど資金繰りの苦労も絶えなかった。
“自振り手形”を切らなくなって久しいが、母の頑張りがこんなところにも反映されている。
会社の銀行印を管理していた母も、80才になって後継に悩んでいたころ、普通の主婦だった家内が『私がやりましょうか』といった瞬間、父の顔がパアーっと明るくなった。
私より9年早く、妻は入社し、母からもいろいろと教えてもらった。
母は戦前に父と出会っており、父は中国の戦地で機関銃連隊に所属し、大勢の仲間が戦死する中で生還した。父は生死に対して腹の据わったところがあり、典型的な昔風の二人は補いながら人生の苦労を支えあって、振り返ってみると、案外幸せな生涯だったと思います。                   合掌
 




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