2019年11月26日

地域ボランティア(その4:へぼ寿司と元気くん)

  祭礼の後片付けも終わって、さあ私も帰るかというときに
準備や祭囃子など大活躍だった班長のFさんが、
       
  ”へぼ寿司”をパックに入れて持ってきてくれた。      
  "へぼ"とは、クロスズメバチなど蜂の幼虫(蛹、成虫も一緒に入れることもある)のこと。
  成虫を追いかけて、巣を見つけ、地中から巣を掘り起こす。      
  Fさんはこの巣を取る名人で、煙幕花火を使って巣を燻し、ハチが一時的に(1 - 2分程度)
  仮死状態となっている間にすばやく地中から巣を掘り出すのだ。       
  幼虫は、膜を張った巣室の中にいるので、ピンセットを使い、膜を剥がし取り出す。  
  ”へぼ寿司”は酢めしの上に蜂の子(へぼ)をまぶしたものであるが      
  家内は全く苦手で見ようともしない。          
                   
  私は、このへぼ寿司ができるまでをFさんから詳しく聞いていたので      
  貴重な夕食として箸をつけた。            
  昆虫の皮膚の固いパリパリ感があり、蜂の子自体の味はあまり感じなかったが  
  酢めしの味付けが良くて、一気に平らげた。          
                   
  食べ終わってしばらくすると、お祭の疲れもどこかへ飛んでいって      
  元気が出てきたような気がする。            
  「ロイヤルゼリー入りの栄養ドリンク」があるくらいだから精もつくのだろう。    
                   
  お祭の準備では、前のブログで書いたようにFさんやそのお兄さんに      
  大変世話になったが、祭を終えた後も思いがけないプレゼントをいただいた。    
  仕事で中国に出張したとき、煎った”いなご”を食べたことがあり、似たようなパリパリ  
  感があったが、疲労回復の効果は圧倒的に”へぼ”の方に軍配が上がる。  
                   
  Fさんは、私よりひと回りも上ながら、本当にお元気で、”へぼ”を取るときのことを    
  大変楽しそうに話してくれました。ずっと昔「中日新聞」の日曜版に、北見けんいち  
  元気くん」という漫画が連載されていましたが、たぶんそっくりな少年時代を    
  過ごされたと思います。            
  いろいろとありがとうございました。これからもますますお元気にお過ごしください。      


2019年11月06日

地域のボランティア活動 (その3:お祭準備と台風19号)

  全国に広く被害をもたらした台風19号が東海地方から遠ざかり、晴れ上がった    
  10月13日 日曜日の朝7時15分、知多市の「尾張八幡神社」境内に、着飾った「屋形」と  
  花車の2台が整列し、神事を司る役員らに「第10組 杉山ただいま到着しました」と  
  大声で報告し、班長さんたちと正面の祭壇に深々と頭を下げて、当日の行事が始まった。  
  大勢の方の支援のおかげで、やれやれ何とかなったという安堵の瞬間であった。  
                   
  台風19号は死者90名、行方不明5名、71河川・135ヶ所で堤防が決壊するという広範囲に  
  大被害をもたらした。千葉県などではその前の台風15号の被害が大きかったため、  
  台風19号については早くから警戒情報が出されていた。そんな中、      
  祭礼の3日前、10月10日木曜日の夕方、屋形を納めてある地元「皇后社」を守る町内の  
  先輩が、台風接近の中、どうやって準備するのか心配して私の家まで相談に来られた。    
  パレード車に使う2台はレンタカーで祭り前日、台風最接近の12日土曜日の朝しか来ない。
                   
  これまで、皇后社に納まっている「屋形」は町内の宝物であり、代々大切にして、雨に
  濡れたり、粗相して金の塗装が剥げたりしないように大切に護っては、お祭りの晴れ舞台
  で披露してきた。
まず、皇后社の石段を上りきった境内の倉庫にある「屋形」を祭礼2日前の11日早朝
 
  町内の世話役さんの倉庫に移動することにした。雨の中では石段の上り下りは    
  危険だからである。班長に召集をかけたが平日の朝の出勤時とあって大方出払っており、  
  皇后社の上から重い「屋形」を降ろすときだけ出勤前の”若い”班長2名を頼り、後の  
  仕事は平均年齢70歳を越える8名でこなした。軽トラックの荷台の上に「屋形」の  
  「架台」を積み、さらに「屋形」をその上に据え付けると高さは3メートルを超え収納に
  難儀したが何とか納まった。                
  そして幸いなことに、パレード車2台を収納できる町内の大きな倉庫を所有する工場が
  操業を早めに切り上げてもらえたので11日の夕方早くから倉庫を借りることができた。  
  子供会や班長さんたちが何日もかけて準備した紙花飾りや地元中学美術部が制作した  
  パレード用の飾り絵などを倉庫に運び込み、祭り前々日にはあらかたの準備を終える
  ことができたのである。              
  祭り前日12日、土曜日の朝9時、ほぼ班長全員と花車の飾り付けに詳しい  
  先輩方も倉庫に集合した。到着したレンタカー2台に「屋形」や紙花飾りなどを装着し
  終えるのに2時間もかからなかった。土曜日の朝方は、雨は多かったものの傘が使え
  ないほどの強風はなく、班長さんたちの行き来に危険が及ばなくてラッキーだった。      
  そして、冒頭の当日集合に間に合ったのである。        
  祭礼パレードに間に合う準備ができたのは、金曜日朝、夕の先輩方を中心とする  
  頑張りと、土曜日朝方から大勢で準備に集中できたためである。        
                   
  祭礼が無事に終わって感じたことが二つある。        
  一つは                
  安全は最優先ながら、主催側から”中止”の場合の説明をついぞ聞かなかったのはなぜか。
  祭礼は「神事」であり、主催者の宮司さんや神社総代たちにとっては、昔から神様と
  約束した行事は省略できず、たとえ悪天候であろうと成し遂げなければならない・・    
  と考えているからではないか。          
  この伝統を守る信念を尊重する一方で、少子高齢化が進む中で祭礼を継続していく
  ためには、逆に柔軟に何を省き、どう変えていくのかも考えていかねばなるまい。  
                   
  二つ目は、何としても「屋形」を護り、かつ祭礼時には「日の目を見る」ように頑張る
  先輩方の強い想いである。「屋形」に限らず、大小の小道具などを何度も石段を往復
  して運んだ先輩方には、道元禅師の『典座教訓』にあるエピソードを連想させた。    
         *  *  *  *  *  *  *                
  中国に留学中、道元禅師が寺の廊下を歩いていたとき、暑い中、老僧が庭でキノコを  
  干していた。道元禅師は、あまりに大変そうなので、「誰かに手伝わせてはいかがか」と
  話しかけた。それに対し老僧は「他はこれ吾にあらず」          
  (誰かにやってもらったのでは、自分でしたことにはならんからのぉ)と答えます。    
  さらに道元禅師が、「もう少し涼しい時に仕事をされては」と言うと、      
  老僧の答えは、「更に何れの時をか待たん」(今でしょ!)というものでした。    
  ちなみに、背中は曲がり、眉が真っ白なその老僧は私と同じ68歳でした。
 
   
  以上、あらまほしき”先達”の指導と大勢の方々のご協力に改めて感謝する次第です。

さて、祭礼の後片付けも終わったとき、別の『ある事』については次のブログで紹介する
ことにします。
       


2019年05月28日

地域のボランティア活動 (その2:消防操法大会)

5月なのに30度を超える真夏日が続いた暑い日曜日、町内のクリーン作戦で1時間の清掃活動を終えてから知多市緑広場グラウンドに組長も駆けつけた。   
「第51回知多市消防団消防操法大会」が開催され、消防関係者はもとより、衆議院議員をはじめとする来賓の方々もお見えになって、知多市消防団の第1分団から第5分団までの5チームが、ポンプ車操法でのスピードや技術、規律を競うという真剣勝負が繰り広げられた。 
このグラウンドは野球場があり、サッカーなら2面できそうな広さで、敷地を囲う樹木が低く見えるほど露出した空の比率は95%くらいになるだろうか、その炎天下で、長袖、長ズボン、ヘルメットを着用した選手や審判員たちが熱射病になりはしないかと心配になる状況下で大会競技は進行した。
日頃の鍛錬を通してチームの協調性やスキルが試されるのだが、優勝した分団は「愛知県消防操法大会」に代表選手として参加する。これまでも6回の優勝と輝かしい成績を収めている。
いざという緊急事態に地域住民の命を守るには、この大会に向けたような努力やチームワークが不可欠であり、地元の消防団が頼もしいのは、大変ありがたいことである。       
       
さて、白いテントの中で観戦しながら、私は半世紀ほど前の消防団の記憶をたどっていた。     
       
トンネル窯などを有する企業は自前の消防団を持つ必要があり、就職した新入社員には、必然的に消防団に入って、仕事同様、あるいはそれ以上の訓練が待っていた・・・。 
火を使うやきものの町常滑は自社のみならず、行政と協力して近隣の防災活動に会社の「消防団」は率先して参加するため、終業後に行う月数回の訓練は本格的であった。 
当時の私(たち)は、70年安保やベトナム反戦活動に敏感な「戦争を知らない子供たち」であり、行進の際に「かしらー中」などと言われても素直になれなかった年代である。       
「あごひもーかけ」と言われながら被ったヘルメットの上から拳を作って軽くコンコンと叩いたのは本社の○○部長だったが、余程たるんだ新入社員に見えたのだろう。   
今、目の前で観ている操法と、当時も基本は同じで、1番員、2番員としてよく走ったが
『カテンハゼンポウアカハタ、テビロメニヨルダイイッセンエンチョウジョウシャ!』 
などの掛け声の意味も実は分かっていなかった。   
そのころ流行ったガロの”学生街の喫茶店”のメロディが心に沁みた若い頃のはなしである。


2019年05月24日

地域のボランティア活動 (その1:法海寺)

   ~知多市法海寺の紹介と「組長」について~

”土日だけ空けてくれればいいから・・・”
5年前、町内の組長からそう口説かれて、週末だけでは納まらないその役を何とかこなそうとスタートを切りました。
私を推していただいた組長さんの人品がとても立派だったのでその方にご迷惑をかけまいと戸惑いながらも意気込んでいます。

「組」とは知多市を68行政区に区切った単位で、うち八幡小学校区は13組で構成され、そのひとつの「組長」になりました。私が係わる「組」は約600世帯あり、例えば緊急の災害が発生した場合には、「組長」はこの600世帯を守るため、現場の対策本部長となるわけです。   

 今年度初めの行事で13の組長が集まって、校区にある「法海寺」の本堂の中でご祈祷を受けるというご縁をいただきました。   
法海寺」は今から1,351年前の、668年創建というすごいお寺さんで、日本三大薬師のひとつ。
飛鳥時代、聖徳太子が法隆寺を建立したのが607年。645年の大化の改新から少し経た668年(天智7年)に建てられて、それが今日に至るまで想像を絶する時間が流れました・・・。
法海寺」も政治的な保護があったとはいえ、地域に対しては、仏の教えを伝えながら人々の心を安らげ救おうという役目の中、「ご本尊」や「住職」らがいくら偉大であっても、知多半島の根っこに位置する小さなお寺が、飛鳥、奈良、平安、・・令和の今に続くには、地域領民の信仰や粘り強い努力なくして不可能であろう。町内に多い苗字に代表される先祖さまたちががんばったに違いありません。
 
さて、名古屋市にはシニア向け「名古屋市高年大学鯱城(こじょう)学園」があり、「地域の文化・福祉」がカリキュラムにあるくらいなので、(授業料も払わないで)現場で実践できるわけですからきっとよい勉強になると思います。
また、感想などを、ブログの中でも記していきます。
 




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